Deepakchopra
自分の中心にとどまると、
今この瞬間に生きることができます。
注意を向けると、その瞬間に完全に向き合うことが可能になります。
そして、第三の「焦点を保つ」スキルまで来たわけです。
何らかの目標、結果、問題解決など、
何かが起きてほしいと強く望むとき、
自然にそうした対象に
焦点を合わせ続ける状態になります。
しかし意識自体が、
結果をもたらすパワーを持っているのでしょうか?
言い換えれば、
何かを達成するために必要となる作業を脇に置いたまま
もっと意識的になることによって、
より迅速で簡単な達成方法をみつけることができるでしょうか?
それを見出すためには、「明確な意図」として知られる
異なる種類の焦点を用いなくてはなりません。
明確な意図とは、曖昧さや困惑を伴わずに、
自分が何を望んでいるのかを知っていることです。
あなたの身体は、混乱した意図ではなく、明確な意図のほうに従います。
躊躇したり、複雑な感情を抱いたりするたびに
あなたの意図はもう明確ではなくなります。
勝とうという情熱をもってマラソンをするのと、
途中で倒れる心配をしながらマラソンをする違いのように、
ほんのわずかであっても、
矛盾したメッセ―ジは脳を混乱させるのです。
例えばもしあなたがオムレツの作り方を知っているなら、
作り始めから出来上がりまで、おそらく2分もかからないでしょう。
しかし2分という時間制限をもうけ、
せかされた状態で同じことをしてみてください。
簡単な手順でさえしくじったり、少なくともあなたのマインドは
「オムレツを作ること」と「時計に目をやること」の間でゆらぐでしょう。
矛盾した動機という問題は、大きなストレスを招きます。
自分が相反する感情を抱き、優柔不断であり、
意思決定において支持を得られない状況で
人生における決断を下すことがいかに困難であるか、
ということについて考えてみてください。
これらの要素は、あなただけでなく、状況全体にも影響を及ぼします。
不信、競争、隠された思惑がある中で
下さなくてはならない決断は、さらに悪いものになります。
混沌とした動機を持つ人々で構成されるグループは、
いかなる目標にもスムーズに到達することはありません。
そして悪い結果が生じて、
第三者が「彼らは何を考えていたのか?」と尋ねれば
その答えはたいてい
「彼らは同時にあまりに多くのことを考えていた」なのです。
焦点が定められた意図には
常に不可思議なパワーが与えられてきました。
祈りという行為について考えてみてください。
人は、さまざまな異なる状況のもとで、祈りを捧げます。
ある者は、心が動揺し、非常に打ちひしがれた状態で、
またある者は、心を静かに神に向け、
非常に穏やかで平和な状態で祈ります。
成功、救い、贖罪、許し、癒しを求める祈りもありますし、
あなたが10歳の頃は、新しい自転車がほしいと祈ったこともあるでしょう。
人は、祈りに際して取引をします。
「神様、もし私の願いを叶えてくれるなら、
私は良い人になると約束します」というのは、よくある決まり文句です。
実際のところ、祈りが聞き届けられる人もいますが、
祈りかなわず、はかりしれぬ困惑と失望に陥る人もたくさんいます。
しかし、意識という観点においては
もしあなたの意図が明確でないなら、
祈りは聞き届けられないでしょう。
人生のさまざまな場面において、
意図が不明確になってしまうのは、以下のような場合です。
□自分が何を望んでいるのかよくわかっていない場合
□望むものに自分はふさわしくないと思っている場合
□どのような結果になるか懐疑的な場合
□矛盾した動機をもっている場合
□内なる葛藤を経験している場合
「祈り」は議論を呼び起こすテーマです。
そして私は、祈りが実際に効力をもつか否かについて
結論を出しているわけではありません。
真の自己との明確な関係を持つことができれば、
祈りは(もしくはいかなる明確な意図も)
実現すると、私は個人的には信じています。
しかし、あなたが混乱したメッセージを送ると、
コミュニケーションのラインは切断されてしまいます。
明確な焦点が定まり、
そしてあなた自身も焦点を定めるとき、
気づきのパワーが活性化されるのです。
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