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2015年11月8日日曜日

笑えないとき


生きている
それだけで しんどくてつらくて
すべてほっぽって
逃げ出したいけど
生きるしかない選択肢

人生は修行そのもの

生きることがたのしくて仕方ない
死ぬのが怖い
という人は
よっぽど よい人生なんでしょう

生きることが苦痛で仕方ない
そういうひともたくさんいると思いますが
そこには 必ず理由があります

不幸だとか
人より報われないとか
どうしようもない状況とか
不健康とか
喪失の悲しみとか
耐え難い怒りとか

そういう当たり前の生きる苦しみではなくて

ただ存在する
というだけの苦しみ

特に不幸でもなくて
適当に働いて 衣食住も足りている
孤独でもない

それでも 生きる
ただ生きるということが
しんどい人もいるのです

それほどの苦しみで
苦笑いしか笑えない日々が続いていたとしても

ふとした瞬間に
笑えるときもあるのだと

なんにもないのに
ただしあわせだと感じることがあることが
とても 不思議です

理由のない不幸もあれば
理由のない幸せもあるのです


クリックありがとうございます。 


2015年11月7日土曜日

偽りの自己






「エゴと真の自己、どちらの言うことを聞いている?」

ほとんどの人にとってエゴが問題になるのは、
エゴが強すぎて傲慢だと思われるような人がいる場合だけですね。
そんなときも、強いエゴは「原動力」や「成功」と同一視されがちです。

しかし意識という観点から考えると、全く異なる状況となります。
仏教徒たちが「エゴの死」について論じる理由は、
異なる自己が「私が、私を、私の」という欲求によって
偽装されているからなのです。

多くのスピリチュアルな伝統において、
エゴは「偽りの自己」としてとらえられています。
これには、以下のような多くの理由があります。

●「私」は、あなたという人間を
 「肌と骨でできた袋に閉じ込められた分離された心」として定義します。
  あなたという存在は、生まれた瞬間に始まり、死とともに終わります。

●「私」は切り離された存在であり、
  限りある食物、住居、権力、お金、地位を巡って
  他のエゴたちと競争し合います。

●「私」は非常に小さくて有限なので、自然の圧倒的な力と対立します。
  広大で凍てつく宇宙を前にすると無意味でちっぽけな存在に思え、   エゴにとっては生き残ることが最優先の仕事となります。

●「私」は一生を通して快楽を最大限に、苦痛を最小限にすることを目的とし、
  膨大な記憶と共に、自分の好き嫌いを主張します。
  日々継続するこの努力にも関わらず、エゴは不安にとりつかれています。

●「私」が外的なものをいくら獲得しても、心の中では不安を抱えています。
  究極の不安とは「老化」「病気」そして「死」の3つです。

この非常にネガティブな観点から見ると、
「私」とは幸福と敵対するものです。
それでも多くの人たちはエゴが欲するものを全て与え、
根底にある恐怖や疑念を無視しようとすることで
幸福になろうとします。

これは悲観主義的かもしれませんが、
もし他に代わりがないのであれば理にかなった戦略でしょう。

世界の叡知の伝統は、その代わりのものをもたらすために存在しています。
それを発見するとき、
インドではスピリチュアル的に「第二の誕生」として知られる
全く新しいフェーズへと人生は入っていきます。

真の自己は、エゴの欲求ではなく
「愛」「真実」「創造性」「慈悲」といった
より高次の価値を軸においています。

心のより深いレベルで意識の源とつながっているので、
真の自己は安らかです。

真の自己は、人生の浮き沈みにさらされながらも
源と分離することはありません。

だから密かに不安を抱いたり心配をする必要がないのです。
快楽や気晴らしを絶え間なく求めることで埋める穴など存在しません。
人生は、意識を拡大して内側から成長することに捧げられているのです。

このメッセージは
現代人にとっては奇妙に聞こえることでしょう。

しかし「真の自己」とは遠い過去の遺物であるどころか、
普遍的な問題に対処するものなのです。
「より高次の意識に通じる道は常に開かれている」
というのと同義なのはどちらでしょうか?

エゴを選ぶか真の自己を選ぶかは、
すべての世代があらたに直面する永遠の課題です。
もし人生に二つの道があるなら、
どちらを選択すべきかは暗に示されています。

次は、意識的に選択することによって、
思考、言葉、行動――私たちが日々関わる3つの行動――が
どのように変容するかということについてみていきましょう。

真の自己へ至るには、どのような選択をするか次第なのです。

ディーパック・チョプラ


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