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2015年12月31日木曜日

さよなら2015



現象界は苦しみのためにセットされた幻想ゲームなんだ。

だから諦めよう。


ありもしない幸せを追い求めるから、よけいに苦しくなるんだ。


「人生は苦しみだ」 (釈迦ちゃん)


釈迦が説いた真実を、そろそろ受け入れて暮らしてみないか。

苦しみが当たり前に思えたら、もはやそれは苦しみだろうか。


苦しみを友として、これからも共に生きていこうよ。



ちなみに釈迦ちゃんは、そんな苦しみの人生を超えたところに、涅槃寂静なる平安が待っているって教えてくれた。

それは「自己」という分離幻想を超えたところにあるんだって。


ふふふ

そんな2500年前の異国の先生に言われなくても、僕らはその正体を見抜きだした。


自力ではどうにもできないけれど、少しずつ理解が深まり、やがてその理解は個人を離れて全体の智性へと変化していく。

いま、僕たちに起き始めたのはそういうことだ。



こんな言葉に、なんの力もないけれど、今年の最後に言っておこう。

苦しみは幻想のゲームだ。

幻想だなんて思えないくらいに生々しいけれど、それでも幻想は幻想だ。

真実じゃない。


真実はそんな表面的な現象の奥に、いまも傷一つないままで鎮座している。

それが真実のあなた。


だから結局この言葉になる。


「大丈夫だよ」


何が起きているように見えても、真底大丈夫だからね。

誰ひとり例外なく大丈夫だから。


年末ですね。
体の不調であまり楽しい正月休みではありませんが

阿部さんのブログが心に沁みたので、
今年最後、転記したいと思います。
............................................................................................................

「人生は苦しみだ」

よっしゃ、受けてたとう。


来年もきっと困難だろうけど、それも生きてこそ味わえる感覚だ。

いつかちゃんと死ねるから、それまでは一緒に苦しもうね。


なんだか楽しくなってきた(^o^)



今年も一年ありがとう。

僕に関わってくれた全ての人に、心から感謝します。


クリックありがとうございます。 

2015年12月13日日曜日

Butterfly Effect

何を信じているんですか
バタフライエフェクトのように
あなたの一言で
あなたの何かで
何かが変わるとでも?
あなたがやっていることが素晴らしいことだと
誰が信じているんですか
それはあなた
因果応報なんて 信じているのは 幼い魂
私が
あなたが
何をしようが何も変わりません
人生を深く知った人間はそれを解っている
すべては勝手に起こっている
何かを思い描いた時点でそれは自分の手を離れています
でも
でも
人間は何かを信じている時が一番幸せ
だから
人生はつまらないストレスのかかる
自己信念が必要なのかもしれない





クリックありがとうございます。 

2015年11月8日日曜日

笑えないとき


生きている
それだけで しんどくてつらくて
すべてほっぽって
逃げ出したいけど
生きるしかない選択肢

人生は修行そのもの

生きることがたのしくて仕方ない
死ぬのが怖い
という人は
よっぽど よい人生なんでしょう

生きることが苦痛で仕方ない
そういうひともたくさんいると思いますが
そこには 必ず理由があります

不幸だとか
人より報われないとか
どうしようもない状況とか
不健康とか
喪失の悲しみとか
耐え難い怒りとか

そういう当たり前の生きる苦しみではなくて

ただ存在する
というだけの苦しみ

特に不幸でもなくて
適当に働いて 衣食住も足りている
孤独でもない

それでも 生きる
ただ生きるということが
しんどい人もいるのです

それほどの苦しみで
苦笑いしか笑えない日々が続いていたとしても

ふとした瞬間に
笑えるときもあるのだと

なんにもないのに
ただしあわせだと感じることがあることが
とても 不思議です

理由のない不幸もあれば
理由のない幸せもあるのです


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2015年11月7日土曜日

偽りの自己






「エゴと真の自己、どちらの言うことを聞いている?」

ほとんどの人にとってエゴが問題になるのは、
エゴが強すぎて傲慢だと思われるような人がいる場合だけですね。
そんなときも、強いエゴは「原動力」や「成功」と同一視されがちです。

しかし意識という観点から考えると、全く異なる状況となります。
仏教徒たちが「エゴの死」について論じる理由は、
異なる自己が「私が、私を、私の」という欲求によって
偽装されているからなのです。

多くのスピリチュアルな伝統において、
エゴは「偽りの自己」としてとらえられています。
これには、以下のような多くの理由があります。

●「私」は、あなたという人間を
 「肌と骨でできた袋に閉じ込められた分離された心」として定義します。
  あなたという存在は、生まれた瞬間に始まり、死とともに終わります。

●「私」は切り離された存在であり、
  限りある食物、住居、権力、お金、地位を巡って
  他のエゴたちと競争し合います。

●「私」は非常に小さくて有限なので、自然の圧倒的な力と対立します。
  広大で凍てつく宇宙を前にすると無意味でちっぽけな存在に思え、   エゴにとっては生き残ることが最優先の仕事となります。

●「私」は一生を通して快楽を最大限に、苦痛を最小限にすることを目的とし、
  膨大な記憶と共に、自分の好き嫌いを主張します。
  日々継続するこの努力にも関わらず、エゴは不安にとりつかれています。

●「私」が外的なものをいくら獲得しても、心の中では不安を抱えています。
  究極の不安とは「老化」「病気」そして「死」の3つです。

この非常にネガティブな観点から見ると、
「私」とは幸福と敵対するものです。
それでも多くの人たちはエゴが欲するものを全て与え、
根底にある恐怖や疑念を無視しようとすることで
幸福になろうとします。

これは悲観主義的かもしれませんが、
もし他に代わりがないのであれば理にかなった戦略でしょう。

世界の叡知の伝統は、その代わりのものをもたらすために存在しています。
それを発見するとき、
インドではスピリチュアル的に「第二の誕生」として知られる
全く新しいフェーズへと人生は入っていきます。

真の自己は、エゴの欲求ではなく
「愛」「真実」「創造性」「慈悲」といった
より高次の価値を軸においています。

心のより深いレベルで意識の源とつながっているので、
真の自己は安らかです。

真の自己は、人生の浮き沈みにさらされながらも
源と分離することはありません。

だから密かに不安を抱いたり心配をする必要がないのです。
快楽や気晴らしを絶え間なく求めることで埋める穴など存在しません。
人生は、意識を拡大して内側から成長することに捧げられているのです。

このメッセージは
現代人にとっては奇妙に聞こえることでしょう。

しかし「真の自己」とは遠い過去の遺物であるどころか、
普遍的な問題に対処するものなのです。
「より高次の意識に通じる道は常に開かれている」
というのと同義なのはどちらでしょうか?

エゴを選ぶか真の自己を選ぶかは、
すべての世代があらたに直面する永遠の課題です。
もし人生に二つの道があるなら、
どちらを選択すべきかは暗に示されています。

次は、意識的に選択することによって、
思考、言葉、行動――私たちが日々関わる3つの行動――が
どのように変容するかということについてみていきましょう。

真の自己へ至るには、どのような選択をするか次第なのです。

ディーパック・チョプラ


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2015年10月31日土曜日

Alive 生きるということ



生きるということ

わたしには 自分自身にとって、とても大事なことがありました


No music No Life
音楽なしの人生は考えられないくらい音楽を愛していました

それがいまでは
まったく 音楽なしの生活が 普通にあります

音楽は必須条件ではなくなりました

10年以上前~1年前まで

人のと交流が、活発でした
毎年100人以上の新しい出会いがあり
そこで自分の役割を十分に果たしていました
新しい人との出会いは刺激的で面白いものでした
自分から、どんどん人に関わっていました


それがいまでは
人と関わる重要性がなくなりました

そういう刺激が不必要なのです
自分から 人に積極的に働きかけようという思いが消えました
いままで 関わった人とも さらに親交を深める欲求がないので 
御誘いがあっても ほとんど気乗りがしません

今日はハロウィンです
昨年までは 仮装して友人や仲間らと街へ繰り出しました

でも いまは それほどそこに希求性がありません
・・・・・・・・・・・・・・・・・

瞑想をはじめて
約一年。

自分がこういう風に変わるとは思いませんでした

自分は、とても 変わっていて
今ではいくことも難しいいろんな国に行ったことさえ
他人事のように感じます

あれほど 外へ向かって
さまざまな出来事を自分で望んだこと、
好奇心や、情熱があったことがとても不思議に感じます

いまは
日々が 生きるだけが
すべてです

それが

瞑想効果なのでしょうか

それとも
年を経た、ということなのでしょうか

それほど、年齢はいっていない自分が言うのもなんですが@@
 



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2015年10月14日水曜日

思考も自我もOK



昨年とはうってかわって 静かに秋は過ぎて行きます

たくさんの人と関わり、にぎわい
おおいに人生が動く時もあれば
ひとり静かに 時を過ごすときもあります


大好きな金木犀の香りが漂う今が、
一年で一番好きだ、という人は多いです

わたしもそのひとり

ずっとこの幸せな香りがただよっていたら
気持ちもほがらかにいられるのにとか
思ったりもします

でも これがずっと続くと
ひとって、「当たり前」になって
なんとも思わなくなるんですよね


なんでもそうかもしれない


しあわせ、心地よい
そんな気持ちもいいけれど
それをよりわかるためにほかの時間もあると。



ほんとうは自我まみれで
またいつもの人生かな、とか思う

もう同じ繰り返しはいらない
と 何度も思う

でもそう思っているときが一番実は幸せなときかもしれない



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2015年9月25日金曜日


「自分自身を知ることがなぜ大切なのか」


叡智の原則に則っているかどうかを知る唯一の基準は、
日常生活のなかにあるはずです。
人生において賢い選択を行う人は、行わない人よりも、
より幸せで成功した人生を送ることになります。

この基準とは、賢明な選択とは何か、
そして賢明でない選択とは何かを、
知っているかどうかということなのです。
イエス、仏陀、孔子、プラトン、マホメットによって
説かれた叡智は、それぞれ異なるものではありますが、
叡智というものを、もっと大局的にとらえてもいいと思います。
私たちは今挙げた人物を、
宗教者もしくは哲学者として分類しているため、
叡智を「仕事・家族・人間関係」といった
厳しい現実に対して利用することはほとんどありませんでしたが、
大きな間違いだと私は考えます。

叡智とは「今ここでどう生きるか」というスキルのことなのです。
賢くありたい人にとっての第一必要条件は、
現実について知りたいと切望することであると述べました。
世界の叡知の伝統は、この点については意見が一致しています。
現実を知りたいという強い思いは、多くのことを暗示しています。
まず第一に、
現実はあなたの目の前に存在するものではないということです。

現実とは、幻想によって覆い隠され、幻想は心が生み出しています。

2000年前から今に至るまで、
多くの人々が正しいと信じてきた錯覚を、以下にあげてみました。

◎分離した身体に生きているという錯覚
◎心は分離しているという錯覚
◎幸福は、快楽を最大化し、 苦痛を最小化することから生じるという錯覚
◎私たちは宇宙の中で孤独であり、
 高次の力もしくは知から疎外されているという錯覚
◎死が終わりであるとする錯覚
◎人生は公平ではなく、偶然に起因するものであるという錯覚
◎有形の物体こそ、何が現実で何が現実でないかの尺度であるという錯覚

リストの最後にあげられた錯覚は、物質主義と呼ばれるもので、
科学からの計り知れぬ実証を得た現代文明において
幅をきかせているのはなんら驚きではありません。
もしあなたが徹底した物質主義者なら、リストにあげられたすべてが、
錯覚どころかむしろ現実のように見えているでしょう。
リチャード・ドーキンスや他の物質主義的科学者たちが
何かにつけて論じるように「もちろん」宇宙はランダムであり、
高次の知に欠け、純粋に物質的なものであり、
「もちろん」神など馬鹿げており、私たちはまったくの孤独であり、
最上の人生とは、
誰もが避けられぬ死によって永遠に消滅するまで、
この孤独とともに生きる勇気を持つことを意味しているのです。

叡智とは、物質主義を覆し、ドーキンスたちに反論することではありません。
(それはよいスタートにはなるかもしれませんが)
叡智とは、現実は私たちの目に映る
日常の光景とは異なるものだということを真摯に受け止め、
じっくり時間をかけて、ひとつひとつの錯覚について
その妥当性を真剣に追究することのなかにあるのです。

懐疑論者たちは、叡智を重視する「永遠の哲学」とは、
結局のところ希望的観測と空約束に終わると断言します。

私の考えは、彼らとは反対です
――現代文明における鬱病や不安の蔓延、
慢性的ストレスの増加、終わりなき消費主義と
内なる空洞を埋めるために娯楽を求めることから生じる
空虚感によって証明されているように、物質主義こそ空約束をしたのです。

よりよい方法を見つけようという動機は、
庶民の生活条件が今よりずっと厳しかった何千年も前から存在していました。

しかし肉体的快適さに必要なものを得ても、
その動機は失われることはありませんでした。
叡智を求める旅路もまた、期せずして魅力の尽きぬものです。
なぜならそれは、あなた自身の意識を探求し、
魂との関わりを見出し、宇宙の知の源に触れ、
そして表面的な人生に満足している人々が
知りえぬ多くの意識のスキルを
修得することに関わるものだからです。
「汝自身を知れ」とは、賢明な助言ではありませんでした。

なぜならそれは、自分の得手不得手を知り、
エゴの衝動に従い、そして常に
一番を目指すことを促すものだったからです。
「汝自身を知れ」とは、そうしたものを超越し、
自分さえよければという要求や
雑念の奥にある真の自己を見出すよう命じるがゆえに
賢い助言となったのです。

byディーパック・チョプラ


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人生の彩り Color of Life


人生も生き物と同じ。

良いとき、悪いときが、健康・不健康のようにあります。


春からここ数ヶ月、モノトーンの日々でしたが、
ようやく、人生がカラフルな彩りを見せてきました。

特に何が起こったとか、そこに理由はありません。

何もかもが、色彩豊かに見える時期と
何も見えなくなるほど、暗い時期があるということです。

そこに原因などありません。

すべてのことに因果関係はないのだな、とつくづく感じます。

昨日もひさしぶりの至福感に包まれました。
仕事帰りの夕方から、夜もずっと。

なんの理由もないのに。
「しあわせだなあ~」と何度もつぶやいてみました。

最近まったく、無味乾燥した日々だったので、
余計に幸せな気分でした。

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2015年9月21日月曜日

阿部さんらのコラボ講演会




阿部さん黒澤さんらの講演会が昨今ありました。
黒澤さんの理論的、言葉の使い方、わかりやすさは
ずば抜けているので、大和田さんとどう絡まれるのか
本当に興味がありました。
関東でしか講演会行われなかったので、遠方で参加できず
ぜひ今度は関西で開いてほしいです。

コメント欄で発見した講演会の様子が書かれていたので抜粋。
とてもわかりやすい表現で納得!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下如是我聞
1、悪夢を見ている事に気づいて、目を覚ましたい人
2、悪夢を見ているので、もう少し良い夢を見たい人
3、持論を展開したい人 (約1名、ずっと何かつぶやいていた)
の集まりでしたね。
阿部さんは1,2,3に対応してくれました。
黒斎さんは1,2に対応して、3を撃退してくれました。
菜穂さんは1に対応してくれました。
阿部さんと黒斎さんは悪夢を見ている人を色々な方法で起そうとしている。
菜穂さんは目覚まし時計の様にただベルを鳴らすだけ。
ベルの音は3っつ
1、私はいない。
2、事はただ起こっているだけ、そこに意味はない。
3、これがあるだけ。
私の結論は、アイ キャント ドゥ エニシング。
北島康介風に言えば、なんもできねえ。
ただ、鳴っている目覚まし時計に接していれば、目が覚めることも有るかな?
悉皆成仏!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(別の方)
うーん、怒られちゃうかもしれないけれど、
大和田さんみたいに目覚まし時計になるのは、
誰にだってできるじゃないと、思っちゃいました。
どなたかが、トニー・パーソンズのコピーと書かれていましたが。
同じノンデュアリティ―を語る溝口あゆかさんは、もっと様々に表現されています。
黒斎さんが大和田さんに主観と主体の関係について質問した時に、
大和田さんが「主観って(何)?」と聞き返したり、
黒斎さんが、「神様はいない」という大和田さんに
(大和田さんが使う言葉「全体」を説明させたあとで)「「全体」、
それを「神様」と言うんですよ」と、キッパリ言い返す場面があったり・・・
「大和田さんの語彙力、理解力、大丈夫か!」と、感じてしまいました。
大和田さんに突っ込みを続ける黒斎さんは、毅然とされていました。

確固たるものがあって、3パターンを繰り返すのか、
他の言葉を知らなくて、3パターンを繰り返すのか・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大和田さんの出現でここ半年いろいろありますが、
彼女も二元の世界で生きる身である限り、
森羅万象の変化から逃れられるとは思いません。
ずっと「空」でいられる状態から(その信憑性はないですが)抜けたとき、
彼女の真価がわかる気がします。


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2015年9月15日火曜日

地球ひろしさんと広島のえみさん



地球ひろしさんと広島のえみさんのトークショーに先週末参加しました。

えみさんの動画が本当に素晴らしく、
非二元のスピーカーは、大体、端的にしか言葉を使いませんが
彼女は頭がよく、言葉の使い方が素晴らしい(黒澤さんに似てる)ので、
とても、頭(理性)に届くお話会でした。

そして、えみさんもですが、地球さん二人とも人柄が
素晴らしかったです。
良い意味で、人間くさい。
大和田さんには、人間味が一切感じられませんでしたが、
えみさんと地球さんは、人間自体の味わいや風情を
見事に体現され、表現されていました。
わかりやすく言うと、あったかい。
生身のあったかみ。

もう探求には興味がないと言いつつ、
3ヶ月前の申し込みで申し込んだので、
重い腰を上げ行ったのですが、本当によかったです。

なにより、大津で琵琶湖を眺められたことが
ある意味、良い刺激になりました。

こうなりたい
ああなりたい

なにがなんでもやりたい

が全部なくなったところで
こういう非二元の話や覚醒者の話も
もういいかなと
思っていますが
それでも
なにか新しい刺激に触れるのも悪くはないです。

そして、何もしないでいることも悪くはないです。

求めるものも、なりたいものもない
そういう境地でいることもある種の経験です。




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2015年8月17日月曜日

サットサン@大阪



大和田菜穂さんのサットサンに参加しました。
2ヶ月ほど前に募集があり、阿部さんへの信頼と勢いで申し込んだのですが
7月半ばくらいから、探究心が薄らいできたというか、
すべてがどっちでもいい、ということが起こっていたので、
正直、期待もワクワク感もなく、18000円も払ったのでもったいない、
という気持ちだけで参加しました。

クロスウェーブに入ってすぐ、阿部さんの姿を見ました。
最近亡くなられたお母様のことで哀悼の意を伝え、
阿部さんを少しでも慰めたいと思いましたが、
それも私自身の自己満足になりはしないか、と
いろいろ考えすぎて、何も言えませんでした。
あれこれ思考の波に飲まれず、直感で阿部さんを慰めれたら
よかったと後で後悔しました。

サットサンの内容ですが、本当に眠気が吹っ飛ぶくらいよかったです。
何度か、眠気に襲われましたが、応答が始まるとシャキっとします。
長くて同じ応答の繰り返しにイライラする、という前評判を口コミで
読みましたが、実際、ぜんぜん時間が短く感じられるくらい
あっという間に時間がすぎ、濃厚な良いイベントでした。
もっとこの応答を聞き続けていたいような気持ちにもなりました。

大和田さんは4月に動画を見たときは、「>>>?」と
いう気持ちでしたが、著書の内容は素晴らしいものだったのと、
阿部さんがここまでプッシュする人というのを
生で体験したいという気持ちが6月に起こったので参加しましたが、
実際、このサットサンに参加して、何も変わっていないのですが、
根本的に「探求」する個人であろうとしていた気持ちだけでした。

そしてその気持ちも行動もすべてノーコントロールで
起こっていたのだな、と今日つくづく感じました。
だから、人生すべて起こることを観察するままでいいのだ、と
とても楽になりました。

会場には、堀澤老師や、地球ひろしさんの姿も見受けられました。
2人とも、質問されたのですが、菜穂さんにばっさり切られていましたw
阿部さんですら、ばっさり切られていました。
ある意味、痛快でした。

大和田さんが特別だとも思いませんでした。
人間性をみても、良い人間だとも思いませんでした。

でも、そこに「真理」「真実」が一貫してありました。

変な期待もなかったぶん、大絶賛もしませんが、
彼女がいつまで「個人としてではなく全体」の側にいられるか
期間はわからないから、その全体としておられる時に
会えて、同じ空間にいられたことはとてもよかったです。

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2015年8月7日金曜日

無言の業



最近の人間関係でつくづく思い知ったのですが
「言葉」の弊害@@

同じ言葉を話す日本人同士でも
ぜんぜん理解しあえていないのがよくわかります。

逆に言葉が共通していない外国人のほうがわかりあえることもあります。

感じあうということが、一番大事なので、
話さないほうがいいのではないか、とさえ
思うときがあります。

わたしは過去、子供のころから、
何かと弁が立つほうだったので、
そのせいで、「角が立つ」ことも多く苦労してきました。

静かに微笑んでうなづいているだけ、だったら
問題は、いろいろ起こらなかったかもしれません。

用は「話すこと」=「持論を持つ」=「思考が自分だと思う」
につながりやすいので、
結局は、話すことは、「思考の種」です。

そこから、他人との問題も起きます。
一番いいのは、不必要な他人と関わらないことですが、
他人と関わらなければ、現代社会は生きていけません。

なので、できるかぎり
多くの思考の種を他人にも自分にも作らせないように
「無駄な会話をしない」、ということに尽きます。

本当に、人生の充実感を求めることも少なくなったので
友人と呼ばれる「知人」のような無駄な人間関係の清算が
始まりました。

人間関係は、真理の究極でいうと、結局は「自問自答」です。
なので、無駄なことはやめる方向性へ向かっています。

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人間関係の変動


ここ数ヶ月、思考の大半の元が「人間関係」


テラさんのブログで、まさにリアルタイム!で同じ思いだったので
転記します。

イエスは、どこかでそれがなにか優越感を与えてくれたり、
「オレは充実した人生を生きてる」 という実感を与えてくれたりすることが楽しめない段階へ移行した。
 もう、その 「遊び」 には飽きたのだ。
 ここへきて、「真に持つべきもの」 について考えた。
 断捨離なんて、二千年以上前の大昔から、誰かは考えていたこと。
 ただ、物質文明と化した今特有で、「ムダなモノを捨てる」 という、くだらないことにこの考え方は応用されている。そんなもん、捨てたきゃ捨てたらいいし、捨てたくなけりゃ捨てなければいい。捨てないその事実があなたを不幸にするなどない。それは、あなたがたがそう決めつけるからだ。
 むしろ断捨離の原点は、モノの整理ではなく 「人間関係の整理」 にこそある。

イエスは本気で友達を減らしにかかった。
 ここで言う友達とは、「フェイスブックで友達、あるいは趣味 (利害) が一致するので、何となく行動を共にしたり、ワイワイ群れておしゃべりをする人間」 のこととする。


人の聞きたがる言葉を、頑張って言う必要はありません。
 あなたの魂が、言いたいと叫ぶことを言いなさい。



 なぜなら、それを気にするような人は
 あなたにとって重要な人たちではありませんし、
 あなたにとって本当に重要な人たちなら、
 そんなことは気にしないだろうからです。


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2015年7月5日日曜日

すべてのことは無駄ではなかった



一瞥や大悟された方がよく仰る言葉で
「すべてのことは完璧に起きている。すべてのことは無駄ではない」
があります。

わたしはまだ、その感覚を体感・理解するまでには至っていないので
本当にその日が来るんだろうか?と
自分の人生らしき物語に不安を覚えます。

でも少しでも信じる心をもつことも大事だなと感じています。

いつか自分のストーリーの苦しみや悲しみが
全て完璧なシナリオだったんだな、
と気づく日を楽しみにしています。


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2015年7月2日木曜日

低気圧と気分変動



梅雨が続いています。
今年は昨年よりも雨が降る日が多い気がします。

今日の夕方くらいから、急に気分に変動が起こりました。
それと同時に空の雲行きもおかしくなっています。
今夜から朝にかけて関西地方は雨が降る模様です。

ひさしぶりの気分の落ち込みを観察しました。

「なんにも評価されていない自分、認められていない自分」
という、自己ストーリーが現れました。

人よりも何も得られない侘しい人生、などというストーリーも
どんどん生まれてきます。

ここひと月ほど、思考が動かない日々が続いていたので、
いままでの感情整理がどんどん溢れます。

辛い気持ちを拭いきれない、という思い込み。
さっさと死んで人生終わりになればいいという願いとか。

ただ沸き起こる感情と思考が織り交ざった
重苦しいエネルギー、、充分に受け止め感じています。

ネガティブが悪い、とも思わなくなったのに
それでもまだどこかでしんどい自分がいたのですね。

希望や目標がなくなった、と思っていましたが、
まだ最低限の祈りのような思い、
自分のストーリーが奇跡的に良くなることに、
まだしがみついている思考や願いに気づきました。

それすら、手放さなくてはならない、
と思っていた思い込みもありました。

あるがままでいいというのは、時には受け止められない時がありますね。

今日は早く寝ることにします。



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2015年7月1日水曜日

瞑想1年3ヶ月後


フルフィルメント瞑想を続けて1年と3ヶ月目。

最近の私の様子ですが、完全に波がなく、フラットです。
浮き沈みの振り幅が減り、思考も生活に必要なことしかあまり使いません。
たまに湧き上がるイライラや過去の辛い経験などを
反芻して感情を見つめることもありますが、それもすぐに去ります。

そんな感じになっているのはいいのですが、
これが瞑想効果や目覚めの過程なのかどうかわからなくて、ちょっと迷います。
だって、ヘタをするとその感情のなさは、
一見「うつ病」の症状にも当てはまるところがあるからです。
これが鬱病と決定的に違うのは
「落ち込みや悲観的思考がほぼない」というところです。

あと、本当に興味があることに熱中する、ということも少なくなり、
夢中になることもないし、希望を持つ必要性もなく、
目標もないので気楽ですが、
老人化みたいに一日一日をなんとなく淡々と過ごしていくみたいで
日常に全て満足しているわけでもないのに、
こんなのでいいのかなあとそれもまた迷いますw
どうなんでしょうね~

こんな風になったのは、生まれて初めてです。
いつも思考の物語まみれの人生で喜怒哀楽が激しかったのが
こんな単調な感じで平和な毎日を過ごしている。

これは、悟りとかとはもう関係ない、老化なのかもなあ(笑))
ただ、身体の変化(これも老化なのかもしれませんが)
感情や思考がない分、身体面での不都合は、いろいろ起こります。
腱鞘炎から原因不明の全身の節々の痛みや首の痛み。
また胃腸もおかしいまま。
健康診断を最近受けたのでその結果を待ってます。

身体がいろいろ不調を起こしても、なんといっても
心が元気というか、平和なのだけが良いところです。


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2015年6月29日月曜日

アジャシャンティ

ひさびさに素晴らしい本に出会いました。

本当に丁寧に詳しく書かれています。

そして、様々なマスターがバラバラに話す「真理」を
統合するような優しい手ほどきで説明してくれます。

解説ブックとしては、いまのところ最高峰!


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2015年6月18日木曜日

未来と不安感


5月終わりくらいからずっと思考がおさまっていましたが

今日はひさしぶりに未来と不安を感じました。

単に、、、、
金銭面で単に使いすぎていたから、
カードの支払いの多さにビビったのです。

これからこんな感じではいけない、
節約しなくてはいけない、
等々、様々な制限の思考が湧き上がり、
そこから、ひさしぶりに「未来に不安を感じる」という
流れになりました。

同居して、二人で一軒家をやりくりしている弟も
来年には結婚するので、自分ひとりになる、、、
そうすると、稼ぎも少ない私がやっていけるのだろうか、、、という
寂しさと不安と何とも言えない心の空虚な苦しみ。。

本当に人間って、問題を見つける天才かもしれません。

考えなければいいことたくさんあります。

その時になんとかなるというリラックス感は皆無でした。

一瞥体験だけでなく、阿部さんや大和田さんみたいに
「大悟」したら、
そんな湧き上がる現象を感じる次元が変わるんだろうな。

本当にいまは、そこにしか興味がもてません。

友人との話も「現象界」の話も正直どうでもいいのです。

すべての時間を集中して「大悟」に使いたいと
必死なところがあります。

自我が邪魔をするとかわかっているのですが
「探究心」を抑えることができません。

自分なんて早く消えてしまえばいいのに。。。。




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2015年6月14日日曜日

地球交響曲第八番

ガイアシンフォニーⅧ
を観てきました。
20年前はかなりの新鮮さと斬新さを感じたのですが、
8番まで、となると、とうとう「ネタ切れ?」みたいな感じで
特に感慨はありませんでした。
地球はひとつの命、というところに、もう真理を感じないからだとも思います。
地球って枠を超えて宇宙、万物のすべてがひとつのエネルギーという
表現のほうが正しく感じているからもあります。

ただ、ドキュメンタリーとしては、素晴らしい出来だと思います。
映画として見るのには、エンターテインメント性はないです。
でも、龍村仁監督がまだ現役で頑張られて制作されていることに
頑張っていられる人の生き様を見た気がします。

今日、友人に誘われて行ったのですが、
その友人と鴨川をゆっくりと歩いて散歩したりし
大きな木の下で昼寝をしたりして、
いろいろたくさん話したのですが、
友人に
「明日死ぬとなったら、やりたいことっていっぱいあるでしょう?」
と聞かれて、いろいろ探したのですが、
ほとんど浮かんできませんでした。
あれをやらなければ、死んでも死にきれない、とか、
やり尽くしたい、とかそういう情熱みたいなものが皆無だったのです。

本当にそういう願望がほとんど薄れています。

明日死ぬ、としても、静かに受け入れて死ぬだけだな、と思いました。
もちろん、美しい景色がある場所や興味がある外国や、
一度はやってみたいかも、ということが浮かばなくもないのですが、
それをやらなければ、死んでも死にきれない、という執着が
本当になかったのです、。

そういえば、昔、死にたいと感じているくらい苦しいとき、
ああ、そういえば、あの大好きな音楽家の音楽を生で
聴くまでは死ねないな、とかいろいろ執着することは
死にたくてもたくさんありました。

いまはもう死にたいとかはあまり思わないですが、
やらねばならない、やらなくては、という思いが
湧いてこないということに気づきました。

自分の人生が完璧だ、すべてが最高だ、とも
思ってもいませんが、それでも
明日死ぬ、となったら、それもそれでいい、と
正直思います。
それは、諦め、降伏とかの精神でもなんでもなく
本当に心から、執着する自分がいないという気づき。

それを再確認しました。



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2015年6月12日金曜日

感情解放



ひさしぶりに感情の激しい波がきました。

最近、思考もほぼ湧いてこず、感情もフラットだったのですが
通勤帰りの電車の中で、瞑想をしようとしたところ、
隣に、40代くらいのサラリーマンが座り、
イヤホンをしつつもダダ漏れの爆音で携帯ゲームを
して、嫌な咳払いをしょっちゅう繰り返す、ノイズマンでした。
最初は無視しようとしたのですが、
無視しようとすればするほどイライラしてきたので、
注意をしようかと思いました。
けれどもマントラが効いてきたのか、瞑想に入りました。
深い瞑想はすべての感覚をシャットアウトしてくれました。

そして、瞑想明けくらいにまた目を覚ますと
ノイズマンはまだ同じ状態でした。
駅も進み、人も減ってきたので、別の席に移りましたが
それでも、その音が響いてきます。

自分の降りる駅までなんとか我慢して、
本当は感情を解放するために、
思い切り注意してもよかったのですが
どっちでもいい、という思いが湧いたのでやめました。
無駄な労力を使いたくなかったのもあります。

ひさしぶりに感情がブワっときたなあと感じていると
駅を降りてから、急にどんどんいろんな感情がわいてきます。

いままで、腹が立っても言えなかった悔しい辛い思い出が
数珠つながりのように、浮かんでは消え浮かんでは消えします。

ここだ!と思ったので、
思い切り、その感情の中に入りました。
不快で仕方がなかったのですが、
この湧いてくる感情の中に身を浸す経験をするべきだ
という思いが起こったので、それに任せました。

阿部さん推薦の「ジベリッシュ瞑想」をひさびさにしました。

面白かったのは、言葉にならない音声って
いろいろありますね。
最後は「ガルル~っ」と猛獣のようになりました。

動物は賢いですね。
感じたことをすべて鳴き声で出している。
思考がない分、正直です。

いままでの辛い悲しい、怒りの記憶の感情解放ができて
なんだかよかったです。

あまりにもフラットな感情だと奥に埋まったカルマが出ませんものね。


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2015年6月10日水曜日

思考傍観と体感



瞑想のおかげか、
思考や感情に埋没することが滅多になくなりました。

1年半くらい前だったら、自分の人生の悲劇だけを
フォーカスして、常に思考や感情に身を任せていました。
ほとんど、自分の感情と一体になったり、
思考がどんどんあふれ放題でした。
それが普通だったのです。

でもいまでは、辛かった過去の出来事などもどんどん霞んでいっています。
そして、いま、辛いことや腹が立ったりしても
すぐに消えていくようになりました。

そして、自我を強固にするような目標や成長を夢見ることも
ほとんどありません。

自分の人生の物語に意味付けしようという試みも
しようと思わなくなりました。


もちろん、不快なことや幸せな気分を感じる自分がまだいます。


最近そうやって、思考が湧くことや、感情の波がほとんどないので、
今度は体感することにフォーカスするようなことがよくあります。

昔から、アレルギー体質なので、「かゆみ」、
また胃腸の弱さからくる「いたみ」など。


思考にまみれない分、身体の感覚に耳をすますというか
集中することが多いです。

あまりにもフラットなメンタルや思考面とは
正反対にこうやって、体感することが多くなるのは、
また「気づき」をうながす効果があるのでしょうか。

それもまた流れていくだけなのですが。

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EarthTV2

EarthTVは、素晴らしいゲストが多いです。 彼女の体験話はかなりわかりやすかったです。 わたしも彼女と同じ心境の時もあったからです。 この人は、頭が良い人だから、分析が完璧なので、一般向けだと思います。 大和田さんとは違います。 でもどの人もみんな素敵な人だなあと感じます。



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2015年6月8日月曜日

善水寺護摩炊き瞑想



 梅雨の中休み 
新緑と爽やかな清々しい週末に
滋賀県善水寺の秘仏御開帳に行ってきました。
滋賀県は近畿圏でも、また独特の空気感のある場所です。
秘仏見物に行ったのですが、
ちょうど護摩炊きの時間と重なったので
秘仏を眺めながら護摩炊き鑑賞もできました.
そしてその護摩炊きの最中、不思議なことが起こりました。
山風が堂内を吹き抜け、気持ちの良い体感と共に
秘仏を真正面からずっと見つめ続けていると、
仏像の形がグニャグニャと変形して見えるようになってきました。

深い瞑想をしているときに訪れる体の揺れも起こり始めました。
あ、やばい、このままだと深く入りすぎてしまう、
となんとか自制しているうちに
護摩炊きが終わったのでもとに戻りました。

本当に気持ちの良い感覚だったので、
できればもっと続けてたら、どうなったんだろう?と残念です。
瞑想をしていないのに瞑想状態になるという
不思議な面白い体験でした。最近、そういうことが多いです。


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2015年6月1日月曜日

Earth TV

 

インタビューの中でもこの動画が一番秀逸です。
 最初、2014年版の動画を見たのですが、
 彼女の第一印象は
「頭が悪そう・・・」

話し方が全部「えっとぉ~。だからぁ~~。それはぁ~~なんですよぉ~」
 と語尾が間が抜けるほど伸びているので
ええ年こいて、頭が悪いギャルみたいな話し方だし、
仕草や笑い方も下品で品がないなあと感じて、
ど真ん中で、嫌いなタイプの人間でした。 

その印象も、わたしの中の人間判断の基準が勝手に自動反応していただけなんですが。

 あれだけ不快に感じた人の動画をまた見て、
とうとう本まで買って読んで、
 講演会やサットサンに行こうとしている激変ぶり。
 あっという間にww
そんな感じの変化が自分にありました。

解放にグイグイ興味が引っ張られています。

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2015年5月26日火曜日

思考と「わたし」意識




瞑想は毎日やってます。
電車の中で爆睡状態でね。座りながらしてますが
降りる駅を乗り過ごしたことはほとんどありません。
(あるんかいっ)
なんだか、降りる駅で降りられるのも完全に寝入ってないからなんでしょうね。

最近、「わたしはいない」が流行ってますがw、
瞑想で思考が減ると、自意識が低くなりますね。
自分の不必要に湧き出る思考、感情というのを感じる時間がないと
なんだか自分(意識)が消えていくような良い感じです。

今日、体調がひどく悪くなり、
ものすごい痛みに数時間見舞われました。

「苦しみ」と「痛み」は違うものらしいですが、
痛みにつきまとう思考や感情が「苦しみ」とするならば、
この痛みは、ただ起こっているだけ、と割り切れますが
痛みがとまらないのは、本当に辛いものがあります。

起こっているだけ、、ただ起こっているだけ。。。
と、自分という個体が感じてないようにしてみたりとか、
無駄な抵抗をしつつ、、、、思考は湧いていないけど、
い、、いたいもんはいたい・・・・
感じる肉体的なものが凄すぎる・・・

こういう時に、「空」の中にずっといる人は
どういう感じなんだろうなあ、と大和田さんに興味があります。

痛みまくる「わたし」は実際いないなら、どんな感じなんだろう?と。
もちろん、「痛み」が現象だとわかっているので、
そこに思考が入る余地はあまりありません。
完全に痛みの中で痛みだけを強烈に感じ続けます。
そこでわたしは可哀想だ、とか思考がわく余裕もありません。

もし、解放されている方で、
幻想だとはっきりわかりながら、「痛み」とどう向き合えるのかが
知りたいです。

もちろん、病院へ行く、痛み止めを呑む、という当たり前のことを超えて
自分ができる対処を超える意味で、「わたしはいない」なら、
もっと楽に痛みが過ぎるのを待てるのだろうかと。

あと、わたしは、いままで 
精神的にも辛い思いはたくさん経験してきましたが
肉体的に、辛い、痛い、苦しい経験が幼少よりあります。


精神的に地獄を知った人がよく悟りの境地へ至る話は聞きますが
肉体的に地獄を知っている人の悟りの話は聞きません。

肉体的な辛さも相当なもんなのに、、変な傾向だなw
 
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2015年5月20日水曜日

ワンドゥアリティ



瞑想は、毎日行っています
不思議なことがたくさん起こります
それすらストーリーだと思いつつ 
平然と客観視しています

先週末は高野山に弾丸ツアー
そこでなんと日本のトップ、安倍総理と遭遇。
阿部違いですが、日本のトップと直に触れ合う瞬間を
平然と見ていました。総理とハイタッチしました。触りましたww
ストーリーは、本当に面白いですね。
疲れすぎた日本のトップは、かなり可哀想でした。
いまここ阿部さんのエネルギーとは全く違いますww

大和田菜穂さんの動画、彼女が話す雰囲気音域に
かもしだすキャラクター性に とっつきにくい部分がありましたが
彼女の本を読むと、まったく違います
まさに、彼女のキャラクターが執筆していないことが
はっきりわかります。
彼女の個性と言う名のキャパシティでは書けない内容です。


わたしも「一瞥」は少し経験がありますが
もう「解放」のほうへ向かっています。

見性はどうでもよくなっていたところだったので、
これはシフトですね。
シュープリームユニティ効果、ということにしましょう。

実際、瞑想、というか、すべての努力の無用が赤裸々になってきましたから。


執着、成功、幸せの鍵、、まったく関係ありません。


クリックありがとうございます。