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2015年9月25日金曜日


「自分自身を知ることがなぜ大切なのか」


叡智の原則に則っているかどうかを知る唯一の基準は、
日常生活のなかにあるはずです。
人生において賢い選択を行う人は、行わない人よりも、
より幸せで成功した人生を送ることになります。

この基準とは、賢明な選択とは何か、
そして賢明でない選択とは何かを、
知っているかどうかということなのです。
イエス、仏陀、孔子、プラトン、マホメットによって
説かれた叡智は、それぞれ異なるものではありますが、
叡智というものを、もっと大局的にとらえてもいいと思います。
私たちは今挙げた人物を、
宗教者もしくは哲学者として分類しているため、
叡智を「仕事・家族・人間関係」といった
厳しい現実に対して利用することはほとんどありませんでしたが、
大きな間違いだと私は考えます。

叡智とは「今ここでどう生きるか」というスキルのことなのです。
賢くありたい人にとっての第一必要条件は、
現実について知りたいと切望することであると述べました。
世界の叡知の伝統は、この点については意見が一致しています。
現実を知りたいという強い思いは、多くのことを暗示しています。
まず第一に、
現実はあなたの目の前に存在するものではないということです。

現実とは、幻想によって覆い隠され、幻想は心が生み出しています。

2000年前から今に至るまで、
多くの人々が正しいと信じてきた錯覚を、以下にあげてみました。

◎分離した身体に生きているという錯覚
◎心は分離しているという錯覚
◎幸福は、快楽を最大化し、 苦痛を最小化することから生じるという錯覚
◎私たちは宇宙の中で孤独であり、
 高次の力もしくは知から疎外されているという錯覚
◎死が終わりであるとする錯覚
◎人生は公平ではなく、偶然に起因するものであるという錯覚
◎有形の物体こそ、何が現実で何が現実でないかの尺度であるという錯覚

リストの最後にあげられた錯覚は、物質主義と呼ばれるもので、
科学からの計り知れぬ実証を得た現代文明において
幅をきかせているのはなんら驚きではありません。
もしあなたが徹底した物質主義者なら、リストにあげられたすべてが、
錯覚どころかむしろ現実のように見えているでしょう。
リチャード・ドーキンスや他の物質主義的科学者たちが
何かにつけて論じるように「もちろん」宇宙はランダムであり、
高次の知に欠け、純粋に物質的なものであり、
「もちろん」神など馬鹿げており、私たちはまったくの孤独であり、
最上の人生とは、
誰もが避けられぬ死によって永遠に消滅するまで、
この孤独とともに生きる勇気を持つことを意味しているのです。

叡智とは、物質主義を覆し、ドーキンスたちに反論することではありません。
(それはよいスタートにはなるかもしれませんが)
叡智とは、現実は私たちの目に映る
日常の光景とは異なるものだということを真摯に受け止め、
じっくり時間をかけて、ひとつひとつの錯覚について
その妥当性を真剣に追究することのなかにあるのです。

懐疑論者たちは、叡智を重視する「永遠の哲学」とは、
結局のところ希望的観測と空約束に終わると断言します。

私の考えは、彼らとは反対です
――現代文明における鬱病や不安の蔓延、
慢性的ストレスの増加、終わりなき消費主義と
内なる空洞を埋めるために娯楽を求めることから生じる
空虚感によって証明されているように、物質主義こそ空約束をしたのです。

よりよい方法を見つけようという動機は、
庶民の生活条件が今よりずっと厳しかった何千年も前から存在していました。

しかし肉体的快適さに必要なものを得ても、
その動機は失われることはありませんでした。
叡智を求める旅路もまた、期せずして魅力の尽きぬものです。
なぜならそれは、あなた自身の意識を探求し、
魂との関わりを見出し、宇宙の知の源に触れ、
そして表面的な人生に満足している人々が
知りえぬ多くの意識のスキルを
修得することに関わるものだからです。
「汝自身を知れ」とは、賢明な助言ではありませんでした。

なぜならそれは、自分の得手不得手を知り、
エゴの衝動に従い、そして常に
一番を目指すことを促すものだったからです。
「汝自身を知れ」とは、そうしたものを超越し、
自分さえよければという要求や
雑念の奥にある真の自己を見出すよう命じるがゆえに
賢い助言となったのです。

byディーパック・チョプラ


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