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2015年1月19日月曜日

プージャ

プージャの儀式は、一般の感覚の人からは
正直、ドン引き儀式だ、ということは理解しています。
私自身、真理に対する姿勢が一貫していることと、
変わったもの好き=理解不能なものほど好き
(アジアの文化が好きで精通しているかどうかにもよる)
という性格ゆえ、なんにも思いませんでしたが、
ほとんどの人は、「おかしい宗教に入ってしまった」
と思ってしまうような、三次元の不可解性はあります。
昔のプージャでは、歴代の尊師の遺影(絵)も飾られていて、
(今は、金の容器のセットだけをわたしは知っています)
怪しさはものすごかったみたいですwww

アフターケアで、阿部さん自身が、妻である智子さんに
「プージャの儀式の品物などは本当に必要なの?」
という問いをされていました。
智子さんも正直に「要らないといえば、要らない」と、
お応えになっていました。

生身で生きている人間として、わたしは、
それは「「必要」なものかもしれない、と感じていました。
見えるものを信じている三次元のわたしたちにとっては
いかにそれが怪しいものであれ、
どんなに神聖に見えるようなものであれ、
すべては、人間であるわたしたちの「気分」によるものです。

だから、自分の気分を盛り上げるためには、
ある種の「設定」=「儀式」も不可欠なのではないか、
と、私は感じました。
お正月気分におせち料理が必要なように、
クリスマスには、ツリーが必要なように、
節分には、「豆」が必要なように
すべての行事に、目に見えるカタチがあったほうが
一般には、理解しやすいのではないかと。

どっちでもいいのです。
実際、自分の気分が盛り上がるのならば、
目に見えることなんか(五感に感じることなんか)、
生身の私たちには、ほとんど理解できていないのだから。



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